ダメでしょこれ – 『鋼の錬金術師』を観る
はじめに
記事タイトルでオチてるとか言わない。観た直後のツイートですでにオチてるんだから。
『鋼の錬金術師』観た。ダメでしょこれ。
— こーしんりょー@SpiSignal (@KO_SHIN_RYO) 2017年12月9日
ということで話題作『鋼の錬金術師』を観てきました。
私は原作漫画『鋼の錬金術師』を10年ほど前に3巻くらいまで読んだ程度で、その記憶もほとんどない。だから原作を知らない人間としてカウントしていいかと思います。
そんな私が本作を観る理由。それは、私が普段からツイッターで観てもいないくせに漫画の実写映画化をdisる人たちと戦うというポジショニングを勝手にとっているため、やはりこの手の大ネタは観なければと言う勝手な義務感に駆られたからです。というのは建前で、本音は良くも悪くも耳目を集めるブログのネタになるからです。
事前の期待
とはいえ私もお金を払う以上はいくらか期待はしていました。
その理由は、今作が誰の目から見ても「これは失敗するだろう」という、難易度S級の企画だからです。ここまで無茶な企画に金を突っ込む以上、少なくとも技術的な勝算はあるのだろうと。ならば、少なくとも今まで見たことのない日本映画にはなる可能性があるだろうと。
だから技術的なところ以外はある程度目をつむりますよ。
例えば、原作が西洋風の舞台で名前もそのままエドワードなどと言った西欧風の名前を継承しているにも関わらず、配役が日本人であるだとか。もちろんその配役による違和感が生じることは作り手も承知済みのはず。ならば、映画の技術でその違和感を軽減する策があるはずだろうと。
その上で記事タイトルに戻るわけですが、個人的にはもうそのレベルでダメでした。策はあったのかもしれませんが、少なくとも私には伝わらなかった。結果、落胆しかありませんでした。
映画としてダメ
冒頭のツイートがすべてを表しているのですが、本作は「原作との違いがー」とかそういうレベルじゃなくて、映画としてダメのダメダメでした。
原作どうこう以前のツッコミどころが多くてとりあえず「ダメでしょこれ」と一言でまとめておかなきゃ話を始められない。
ということでやっとダメ話が始められます。では私が思った本作のダメなポイントを「子役」「世界観」「新規性」の三点に絞ってお話しましょう。
子役
個人的にはこれが本作の一番の問題点だと思います。
この映画は最初にエドとアルの幼少時代から始まります。これが映画の掴みとなるのですが、その掴みで完全に失敗している。
本作は西欧風の人物を日本人が演じるということですでに結構叩かれています†01が、まだ未発達な子供の顔は特にごまかしが利きません。
つまり、映画で最初に出てくるキャラクターである子供時代のエドとアルが、一番マズい絵面となってしまっています。
どう見ても金髪に染めた日本人の子供にしか見えなくて、その「金髪に染めた日本人の子供」を目の前にしたときに日本の観客がどう思うかを想像しよう。どう見てもマイナスイメージですよ。だから何故この幼少時代のエピソードから映画を始めたのか、いきなり正気の沙汰ではないなと。
いや、「最初に一番マズい絵面を見せてハードルを下げよう」という作戦だと言うならそれは成功していると思います。そんな志でいいのかという問題が残りますが。
問題は見た目だけではなく、演技にも及びます。
そもそも日本映画でファンタジーをやるとき、そこでは独特のリアリティが要求され、その要求に合わせた演技をする必要があります。大人の俳優でもそれがほとんど上手くいってないように見えるのに、それを子役に要求するのは酷というもの。オーバーアクションなよく見る子役演技で「学芸会」感マシマシです。
もちろんこれは子役が悪いのではなく、子供の演技を映画に合わせてコントロールできなかった監督の責任だと思います。
世界観
「世界観」と切り出したものの、映画全体の雰囲気についてのふんわりした話なので更に「口調」「生き死にの扱い」「ロケーション」の三項目に細かく分けます。
口調
上の予告編でのマスタング大佐(ディーン・フジオカ)の「久しぶりだな、鋼の」というセリフに代表されるように、過剰にハキハキとした口調でセリフを喋ります。その演出プランで実現された台詞回しが個人的には画に対応しているようには感じられず、「作り物」感が強調されているようで受け付けませんでした。
漫画原作……というか、アニメの印象を引きずっているのかもしれません。そういう意味ではひとつの演出プランとしては間違っていないのかもしれません。
生き死にの扱い
生き死にに関わるようなバトルアクションを展開する映画として結構致命的だと思ったのが、本作のアクションシーンにおいて「どんなダメージを負ったら死ぬのか」という描写が曖昧に片付けられていることです。
予告編のスクショ†02を貼りますが、序盤のエド対コネーロ教主戦でのバトルではいくつもの石柱を建物から生やして攻撃します。そしてついにエドの顔面にその石柱が突かれるのですが鼻血が出る程度のダメージで、絵面に対してまるで殺す気が感じられません。
映画終盤ではマスタング大佐がある攻撃を受けて死ぬほどお腹を痛そうにするのですが、敵を撃退したあとは割りとピンピンしていてズッコケましたね……。
こういう中途半端な描写を見せつけられると、人死に対する真剣味が失われてしまうんですよね。
ロケーション
海外ロケの成果は出ていたと思います。建築描写に対する説得力はかなり作品にプラスされていました。
でも使い方はイマイチかなと。やはりエド対コネーロ教主戦なのですが、序盤はこの二人以外に人っ子一人出てこないことにすごい違和感を感じました。その後、舞台を移って小市場風の広場に来るとエキストラがそれなりに居るんですよね。で、その広場で決着がつくのですが決着がつくまでの間に人の出入りがない。だから、まるでこの広場にこの人数だけの人がいるだけ、という風に感じられて世界がものすごく狭く感じちゃうんですよね。
新規性
これは比較の話になるのですが、私の周囲で褒めてる人があまりいない実写版『進撃の巨人』はやはり企画の難易度に対してチャレンジしていたな、と再確認できました。
『鋼の錬金術師』もCGは頑張っています。錬金術シーンやアルの鎧の動きなどは良かったと思います。
でも、これらのCGの使い方は本作の何倍もの資金を注ぎ込んだハリウッド大作に敵うはずがありません。
例えば終盤、画面に収まりきらない数の敵が同時に襲い掛かってくるという『ワールド・ウォーZ』風のシーンがありますが、どいつもこいつも似たような造形で似たような動きしかしてくれないので全然ものたりない。
また、アルの鎧がすごいと言っても、同じく非人間のキャラクターを実写の演者と絡ませるというCG使いでは今年は『猿の惑星: 聖戦記』がありました。
せっかく超人気漫画原作という邦画の中では金を引っ張れそうな企画なのに、やっていることがハリウッドの下位互換でしかないのは残念でなりません。
対して、『進撃の巨人』の巨人描写はハリウッド大作では見たことないタイプの独自の魅力がありました。残酷描写も大作邦画の中ではぶっちぎりに攻めており、それでいてレーティングをPG12指定†03で抑えられたのは賞賛に値します。もちろん全体的な出来栄えに云々言うことはできます†04が、少なくとも「応援したくなる」魅力がありました。この差が、鑑賞後の印象を大きく変えたなと思います。
先日バズっていた次のツイートがあります。
実写版デビルマンの面白さを「1デビルマン」とすると、
・実写版ガッチャマン:20デビルマン
・シベリア超特急:34デビルマン
・実写版進撃:55デビルマン
・実写版ハガレン:65デビルマン
くらいの勢いだったので、全然だいじょうぶです。— 66/78? (@1gho) 2017年12月1日
あえてこのツイートの表現にノるならば、個人的にはハガレンは25デビルマンですかね。この中では『進撃の巨人』が頭一つ抜けている印象です(『シベリア超特急』は未見)。
おわりに
以上より、結論としては少なくとも私と似たような映画の嗜好をしている人には全くオススメしません。
どれくらいオススメしないかというと、原作を全く知らずに鑑賞して「これは原作からして私は絶対合わないだろう」と感じた『銀魂』よりもオススメしません。
そんな訳でもう『鋼の錬金術師』とは全く関係のない話をするのですが、同日に鑑賞した『ノクターナル・アニマルズ』をオススメします。
元夫から送られてきた小説を映画内映画として展開するというトリッキーな構成で魅せる、醜悪で滑稽な物語を美意識の塊のような完成された演出プランの映像で展開する傑作でした。「創作」が他者に影響を与えるというテーマも私好みでした。
完全に『ノクターナル・アニマルズ』にやられた。もう『鋼の錬金術師』の記憶がない。https://t.co/ZAgxIjl8nA
— こーしんりょー@SpiSignal (@KO_SHIN_RYO) 2017年12月9日
脚注