題材をどのように調理するか – ダニー・ボイル版『スティーブ・ジョブズ』を観る
スティーブ・ジョブズ。その功績は説明不要かと思われる。
例えば、あなたがこの記事を読んでいるそのデバイスも、彼が産まれていなければ存在しなかったか、またはその性質が大きく変わっていたことだろう。
2011年10月に亡くなってから、彼を主人公とした劇映画は今回のダニー・ボイル版『スティーブ・ジョブズ』が二作目。
私はあまりスティーブ・ジョブズに対して特別な感情は抱いていなかったが、今回の映画はえらく気に入ってしまった。
すでに劇場で二回鑑賞し、ウォルター・アイザックソンによる伝記『スティーブ・ジョブズ』のKindle版も購入。
遅ればせながら個人的にジョブズ・ブームが来ている。
その個人的なブームに関しては置いておいて、映画として今回の『スティーブ・ジョブズ』を紹介したい。
三つの製品、三つの発表会
はっきり言って本作は相当変な映画だ。
なんといってもその構成。
三幕構成でそれぞれ次の三つの製品の発表会、その40分前の舞台裏でのゴタゴタ”だけ”を描く。
- Macintosh(1984年)
- NeXT Cube(1988年)
- iMac(1998年)
このような変わった構成を採用した理由。
それは作中でのジョブズの台詞に「発表会の直前になるとみんな本音が出る」とあるように、大舞台直前という混迷の中でこそ各人の心中が勢い余って漏れ出てしまい、そのぶつかり合いからドラマを構築しようと試みているからだ。
本音のぶつかり合いでドラマを作る以上、それは必然的に会話劇となる。
本作の脚本を務めたアーロン・ソーキンは『ソーシャル・ネットワーク』でもテクノロジー業界(=オタク)っぽさ全開の早口台詞で展開される高密度な会話劇を作り上げたが、本作でもその手腕は健在だ。
しかも今回は「発表会までの40分間」ということでタイムリミット要素が加わり、ダイナミックさにより拍車がかかる。
舞台に上がるジョブズの前に次々と立ちふさがるトラブルや訪問者との百人組手は、会話のユーモアも相まってダレること無く最後まで突き進む。
時代と舞台が変わるに連れて、撮影や音楽も方向性も大きく異なっていく。
特に、撮影に用いられるカメラの違いはその効果が大きい。
プロローグに当たるアーサー・C・クラークへの白黒のインタビュー映像に始まり、Macintosh編でのざらついた映像を経て、iMac編での現代的な映像へと至る。
時代の変遷を映像一発で把握できるのも利点だが、同時に主人公であるスティーブ・ジョブズの歳を重ねるにつれて落ち着いていく佇まいともマッチしているように感じた。
スティーブ・ジョブズという題材から見出したテーマ
個人的に『スラムドッグ$ミリオネア』に代表されるダニー・ボイル監督作品の特徴は「躍動」の一言に集約されると考えている。
本作もその例に漏れず各時代それぞれに用意された見せ場では勢い重視の演出で一気にモニターに惹きつけられる。
そもそもスティーブ・ジョブズという人物の人生が躍動感に溢れたものだから、題材としてダニー・ボイルと相性が良かったとも言えるだろう。
しかし、題材に対して適材適所な人材による映画化と言っても、既にこの題材はジョシュア・マイケル・スターン版『スティーブ・ジョブズ』という同邦題の先行作品が存在する。それとの差別化は必須だったであろう。
ジョシュア版『スティーブ・ジョブズ』では、実在した人物を題材に劇映画を撮るということに対してド直球なアプローチを採っている。つまり、ジョブズが大学を中退してからiPodの発表会までという彼の半生を、順を追った伝記として丁寧に描き出そうとしているのだ。
しかし、約30年分の半生を描くには2時間という尺では足りな過ぎる。その結果、終盤は尻すぼみで描きたいテーマも散漫という、イマイチな作品となっていた。
このような先行作品と同じ轍を踏んでも意味が無い。そこで、本作の脚本を務めたアーロン・ソーキンがどんな作家であり、今回の題材に対してどのような戦略を採ったかをみてみよう。
アーロン・ソーキンの代表作といえば前述したFacebook創始者マーク・ザッカーバーグを描いた『ソーシャル・ネットワーク』だろう。
『ソーシャル・ネットワーク』ではFacebook(=他者との距離を縮めるツール)で業界をのし上がるザッカーバーグを現代のメディア王として捉え、事業に成功していくに連れてかつての友人との距離が離れていってしまう様を描く。皮肉の効いた切ない青春ドラマとして極めて完成度が高い傑作だった。
しかし、本作はザッカーバーグ本人から「現実と同じなのは衣装だけ」とダメ出しを受けている。
このように、アーロン・ソーキンは事実から抽出したテーマをより純化させるために大胆な脚色を試みるタイプの脚本家といえる。
そして、今回『スティーブ・ジョブズ』でも同じようなアプローチで臨んでいるように私には見えた。
今回映画を撮るにあたってスティーブ・ジョブズという人物から抽出したテーマは父親としての顔
である。
もちろんパーソナル・コンピュータを広めた天才という一面やそのカリスマ性、または変人で自己中心的というパブリック・イメージとしての彼の姿も描いているが、その全てが「父親としてのジョブズ」という大テーマの下部に置かれているように思える。
三幕構成のそれぞれに、ジョブズと高校時代の恋人との間にできたリサという娘が登場する。
84年編では娘の認知を拒否したジョブズ。この第一幕ではクローズドで支配(コントロール)可能な製品にジョブズがこだわる理由を当時のCEOであったジョン・スカリーによって暗に語られる。
そして、第三幕に当たる98年編ではかつての戦友たちやリサとの間で本音をぶつけあった末に、ジョブズ自身が内側に抱えるコントロール不可能なものが(これ以上無い不器用さでもって)現れる。このクライマックスは感動的だ。
「スティーブ・ジョブズ」と聞いてとっさに思い浮かべてしまうような映画とは全く異なる思いもよらない着地を見せる本作は、まさに良い意味で「思っていたものと違う」作品だった。
伝記映画ではなくヒューマンドラマとして。
イチオシの一作である。