そのこうもりはシナリオゲーかキャラゲーか

はじめに

『AIR』は抜きゲーである。
その根拠は単純明快。私がこれまでプレイしてきた中で上位に入るくらいたくさん抜いたエロゲーだからだ。

あるエロゲーを指してそれを「抜きゲー」と分類するのが妥当だろうかと考えたとき、「抜き」と冠するのだから「実際に抜いた回数」という定量的な指標を用いて判断するのが自然だろう。
私は『AIR』でたくさん抜いた。だから『AIR』は抜きゲーなのである。

……「こいつはいったい何を言っているんだ?」と思われたかもしれない。
しかし、私からすれば『AIR』を「シナリオゲー」や「キャラゲー」とカテゴライズするほうが抵抗感がある。それは「シナリオ」の良さや「キャラ」の魅力を定量化するすべが思いつかないからだ。数値で比較できなければ、他の作品と並べてみてそれが「シナリオゲー」や「キャラゲー」と分類するのがどれほど妥当なのか、判断ができない。

そう、私は以前より誰かがある作品を指して「シナリオゲー」「キャラゲー」と呼ぶ姿を目にする度に、おそらくあなたが上記の理屈を読まされて抱いた違和感と同じものを内心に生じさせていたのだ。

そんなわけで、この記事では私が日々抱えている違和感を言語化しよう。

そのこうもりはシナリオゲーかキャラゲーか

エロゲーを分類する目的

基本的に、分類という行為によって個々の情報(今回の場合はエロゲーのタイトル)の検索性を高める効果が狙える。
エロゲー批評空間SQL実行フォームで以下のクエリを叩いてみると現時点で30000を超えるタイトルが登録されていることがわかる。

SELECT COUNT(*) FROM gamelist;

これだけの数だとある目的をもって特定のタイトルを探すとき、たとえば自分が好みそうなタイトルを探すときに一苦労する。
だから似ている要素を持つ作品をあるグループに分類することで探しやすくしたいという欲求が生まれる。これがエロゲーを分類する目的のひとつである。

しかし、複雑なもの(今回の場合は「数が多い」という複雑さ)を単純化する行為は、えてして大事なものを損ないがちだ。

たとえばすべてのゲームの集合から後述する定義に沿ってゲームを括って「エロゲー」と分類する。すると、その中にある「ストーリーの優れた」タイトルにも「エロゲー」というラベルが貼られることになる。
「エロ」という文字列はあまりに露骨で強烈だ。私の独自調査によれば男子中学生とおっさんの好きな二字片仮名ランキングのトップ10に毎年エントリーしている(余談だが私はこの結果を「エロのダニング=クルーガー効果」と呼んでいる)。そんな強烈な文字列で好きな作品を単純に括られてしまっては、その好きな作品の大事なものが損なわれてしまうと感じてしまい、男子中学生とおっさん以外には我慢できないものがあるだろう。
ただし、「エロゲー」の定義を「性的表現を含むために年齢制限が設けられたゲーム」とするならば、その好きな作品がエロゲーであるということは動かしようのない事実だ。ではいったいどうすればよいか。
そこで、「シナリオゲー」というより細かい分類を内部に設けることで「エロゲー」という呼称を貫通するというテクニカルな解決策が振るわれるようになった。これもエロゲーを分類する目的のひとつであると、私は見ている。

以上のように分類という行為にはいくつかの利点があり、その利を得ようという誰かの思惑が働いた結果、「シナリオゲー」「キャラゲー」といった私が違和感を抱く分類がこの世に生じるのである。

こうもり問題

分類をする上でたびたび直面する問題として、こうもり問題を紹介しよう。

それは動物を分類するときに「翼が生えている」「全身が毛に覆われている」という特徴を持つコウモリを鳥か獣のどちらに分類するべきかという問題で、情報を分類する難しさを示す問いだ。
イソップ童話の『鳥と獣とコウモリ(卑怯なコウモリ)』に由来するらしい。

この問題は多様な属性を持ちうる事物を、階層構造で整理する際に生じやすい。
エロゲーについてくだを巻くこんなブログに目を通しているような読者のことだからパソコンやスマホ、あるいはクラウドストレージに秘蔵のエロ画像フォルダを隠していることだろう。巨乳と騎乗位が好きなあなたは「巨乳」フォルダと「騎乗位」フォルダを用意しているかもしれない。さて、新たに出会った巨乳のキャラクターが騎乗位をしているエロ画像をどこに置く?

……あまりにも頭の悪い例え話なので、もう少し頭が良さげにみえる事例をあげよう。
図書館は資料をなんらかの図書分類法を用いて分類する。日本国内で広く使われているのは日本十進分類法(NDC)だ。NDCでは三桁のアラビア数字を用い、大まかな分類から細かな分類へと順次細分していく階層構造を採用している。
たとえヒトの叡智を集めた図書館であっても階層構造で分類を試みる以上はこうもり問題に悩まされる。その果てに利用者から見て愚かとしか思えないような分類をしでかしてしまうことがあるのだ。

普段から「シナリオゲー」「キャラゲー」という言葉でタイトルを分類している方でも、そこに限界があることを自覚していることと思う。
こうもり問題はエロゲーもプレイできないような小学生でもわかるたとえでその限界を明確にするのだ。

『ふぃぎゅ@メイト』というこうもり

さて、それではいつものように『ふぃぎゅ@メイト』の話をしよう。
改めて言うまでもなく私の人生における最重要作品である『ふぃぎゅ@メイト』を、どのように分類しようか?

  1. 炎道イフリナという最強のヒロインを生み出した「キャラゲー」?
  2. そんな炎道イフリナの大活躍を描いたストーリが楽しく魅力的な「シナリオゲー」?
  3. そして炎道イフリナを中心とした魔法少女のバトルを描いた「燃えゲー」?
  4. とどめに炎道イフリナだけで70弱もの回想シーンがある「抜きゲー」?

ずばり、私にとっての「シナリオゲー」や「キャラゲー」といった分類の違和感の正体はここにある。私の人生における最重要作品を、私はこの方法で分類できないのだ。

自分自身にとって、シナリオも優れているし、キャラクターも優れている。そんなタイトルをひとつ思い浮かべるだけで「シナリオゲー」や「キャラゲー」という分類は簡単にその限界を露呈させる。
限界が分かりきっている方法で単純化してしまっては真に伝えたいことも零れ落ちてしまうのではないか。そんな疑念が違和感を生じさせるのだ。

『ふぃぎゅ@メイト』がこうもりになってしまった理由として、本作が育成SLGとしての要素を多分に含むことに注目したい。
たとえば「シナリオゲー」を「シナリオの面白さを志向した」と思われるゲーム、「キャラゲー」を「キャラクターの魅力を志向した」と思われるゲーム、そういった制作意図を汲んで分類するというように、言葉の定義を少しスライドさせることで違和感を低減することが可能かもしれない。
しかし『ふぃぎゅ@メイト』は育成SLGというシナリオやキャラクター以外のところでプレイヤーを楽しませようという明確な制作意図がある。それにも関わらず(私にとっては)最高のシナリオとキャラクター(ついでに燃えも抜きも)をも実現してしまっているのだ。だからたとえ制作意図を汲んでもやっぱりこれらの分類に収めることができないのである。

突き詰めていくと

いやいやちょっと待ってくれよ、という声が(私の脳内からも)聞こえてくる。
少なくとも『ふぃぎゅ@メイト』のシナリオが最高だと声高に言っている人間は少数派でまるで説得力がないよと。

そうなってくるともう、じゃあ「そもそもシナリオが優れているとはどういうことなのか?」という本質論でバトルする羽目になる。
その解を私は持たない。いつか「これだ!」という解を見つけられたとしても、きっと次の日には移り変わっているようなものであるという直感もある。

だから次に述べることは現時点で100パーセントの確信を持っているわけではないが、後から笑い話になるかもしれないのであえてここで記録として残そう。
そもそも、シナリオが本当に面白ければ必然的にキャラクターは魅力的に見えるし、キャラクターが本当に魅力的ならば必然的にシナリオは面白くなるのではないか?

自分でもやっぱりなんだか理想論めいた主張な気がしないこともないが、少なくとも私にとって『ふぃぎゅ@メイト』の物語は炎道イフリナというキャラクターの魅力を最大限に引き出しているし、そんな炎道イフリナが大活躍する物語はやっぱり最高に笑えるし燃えるし泣けるし素敵にも程があるのだ。
そう考えを進めてみると、「シナリオゲー」とはまだ和解ができるような気がしてきた。キャラクターの魅力はそもそも前提なのだ。キャラクターが魅力的だからこそ、シナリオは面白くなり、エッチシーンは抜けるようになる。故に、キャラクターの魅力”だけ”しかない優れたゲームを想像するのは今の私には難しい。だから特に「キャラゲー」にはいつまで経っても違和感がつきまとうのだ。

以上。あれもこれもすべて現時点で私が抱える違和感の考察であり、一般化できるようなは話ではもちろんない。
『ふぃぎゅ@メイト』が好きすぎておかしくなった男のバイアスがかかった意見として、読者が一考していただければこの記事の役割は果たせたと言ってよいだろう。

おわりに

念のために記しておくが私は「『AIR』は抜きゲーである」が真理であると考えていない。

私が『AIR』でたくさん抜いたことは真実である。だからといって「『AIR』は抜きゲーである」が真理であると結論するのは早まった一般化という誤謬の典型例だ。
ではどれだけサンプル数が増えれば「早まった」ではなくなるのだろう。たぶん「『AIR』は抜きゲーである」よりも広く共通認識を得られている「◯◯はシナリオゲー」という主張は多々あるだろう(それこそ◯◯に『AIR』を入れればよい)が、それが早まっていないと言えるのはいったいどの段階なのだろうか。

何事もそうであるが、真に客観的になどなれるはずがない。この手の主張には必ず主観が入り込む。
だから誰かがあるタイトルを指して「シナリオゲー」「キャラゲー」と分類し、そのもっともらしさを強弁したとしても、私はそれを真に受けない。そのタイトルのシナリオもキャラクターもどっちも楽しみに行くだけだ。

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