「カタルシスがない」という物言いへの違和感について

はじめに

昨日、𝕏のスペースで『セレクトオブリージュ』の話をした。
本作は公式ページのコンセプトに「カタルシス」をコンセプトに掲げており、しかしそれをプレイした方が「カタルシスがなかった」という話をしていた。しかし、「カタルシスがない」という物言いにはなんだか違和感があるなあということをその場で話をした。
そこで話した違和感について再考し記録する。

「カタルシスがない」という物言いへの違和感について

前提として、「カタルシス」はそのカッチョイイ字面が故にみんなが雑に使いたくなり、そしてみんなが雑に使うが故にこの語が示す観念は各人ごとにあまり一致しない
こう前提すると心の中のこーしんりょーが「お前が言うカタルシスってなんだよ!」としつこく尋ねてくるのだが、これに回答しようとすると話が進まないのでここでは無視することとする。
ジャパニーズ・インターネットの言論空間でやんわり共有される雑「カタルシス」概念についてのお話だ。

私は、創作は「カタルシスをなくそう」と意識しないかぎり自然とカタルシスは作品に内包されるものであると考える。
カタルシスが何を指すかは雑に捉えるとしても「カタルシスがあると好意的に評価される」ということは一般に共有されているような気がする。だから、好意的に評価されたいと考える創作者は無意識に作品にカタルシスを仕込もうとするはずだ。
つまり、「カタルシスがない」作品は不自然なのである。

創作者は無意識にカタルシスを仕込もうとしてしまう。だから、ある作品が「カタルシスがない」状態になるためには、「カタルシスをなくそう」と強く意識して創作をする必要がある。
そして、そういう意図・企みを察知したときに人はその作品を「アンチカタルシス」と評する。これは「カタルシスがない」のではなく、「(自然に生じてしまう)カタルシスに抗う」というイメージから生じる言葉であると私は解釈する。
ちなみに、ここでその作品が「アンチカタルシス」であるということに気づくことによってある種のカタルシスが生じてしまうというという皮肉がある。

カタルシスとは創作に自然と仕込まれるものであり、それをなくそうと不自然な創作を志してもまた別のカタルシスが生じてしまう。
結局「カタルシスがない」という状態は考えづらいのだ。
だから「カタルシスがない」という物言いを耳にしたときに私のなかで違和感が生じ、和気あいあいと語るスペースの場で空気の読めないツッコミを入れてしまったのであった。

そんなわけで、私は「カタルシスがない」とは表現せず以下のような表現を用いがちだ。

  • 「カタルシスが弱い」(カタルシスがあることを前提にその程度が弱いこと)
  • 「カタルシスが得られない」(私の適応力不足によりその作品に仕込まれたカタルシスを感じ取ることができないこと、いわゆる「not for me」)

余談。
作品にカタルシスがあることは自然であるという私の考えからすると、作品コンセプトにわざわざ「カタルシス」を掲げることの意味とはいったいなんだろうという疑問が湧く。
しかし『セレクトオブリージュ』自体にあまり興味がないためその真意を確認する機会が訪れることはないだろう。

おわりに

この記事を読んだ者は当ブログで「カタルシス」の語を検索することを堅く禁ずる。


セレクトオブリージュ(Amazonリンク)

Share & Bookmark

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です